旧国鉄の分割民営化に尽力したJR東海の葛西敬之名誉会長が25日、間質性肺炎のため亡くなりました。81歳でした。
葛西氏は昭和38年に旧国鉄に入って職員局次長などを務めたあと、旧国鉄の分割民営化に尽力し、「国鉄改革3人組」とも呼ばれました。
昭和62年に新たに発足したJR東海の取締役に就いたあと社長や会長を歴任し、平成26年からは名誉会長を務めていました。
この間、葛西氏は山梨県のリニア実験線の整備や東海道新幹線の品川駅開業に尽力したほか、新幹線やリニアの技術の海外展開にも力を入れ、平成26年には旭日大綬章を受章しています。
東京電力福島第一原子力発電所の事故のあとには、政府が設けた原子力損害賠償支援機構の運営委員を務め、賠償の問題や東京電力の経営改革に尽力するなど、公職を歴任しました。
また、保守派の論客としても知られ、政界にも幅広い人脈を持ちました。
JR東海によりますと葛西氏は病気で療養中でしたが、25日午前、間質性肺炎で亡くなりました。
81歳でした。
旧国鉄の改革に尽力した「国鉄改革3人組」
国鉄は昭和24年に公社として発足しましたが、マイカーの普及やトラックによる物流の拡大に伴って、年々、シェアを落とし、昭和39年度に赤字に転落。
その後も借金が雪だるま式に膨れ上がり、昭和55年度以降は毎年1兆円以上の赤字を計上し続け、37兆円余りの長期債務を抱えるに至り、経営が行き詰まりました。
このため昭和57年、第2次臨時行政調査会、いわゆる「土光臨調」の方針で、5年以内の民営化の方針が示されました。
この中では全国で一元的な運営を行ってきたことが、輸送構造の変化に的確に対応できなかったと指摘され、分割することが決まりましたが巨大組織である国鉄の分割民営化は、困難だと言われていました。
葛西氏らは、昭和40年度に46万人余りいた職員を民営化前の昭和61年度には27万人余りに減らすなど徹底した合理化などを通じて、分割民営化を内部から主導しました。
そして昭和62年4月1日、国鉄は全国6社の旅客会社と貨物会社の計7社に分割され、すべての株式を国が保有する特殊会社として再スタートしました。
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そのうえで「本人の近くで長く仕事をしていたが、日本の大動脈輸送を担うための長期的な視点と同時に足元の安全もおろそかにしてはいけないということをよく言っていた。これは今のわれわれの会社の捉え方として受け継がれている」と述べました。
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そのうえで、葛西氏が旧国鉄の分割民営化に尽力したことについては「民営化を進めたことは大いに結構なことだが、内外からの抵抗は大きかったと思う。これを成し遂げるのは通常の経済人ではできなかっただろうし、政治力というのも必要だったのではないか。われわれとは違った活躍をされた方だと思う」と述べました。