『国葬の成立 明治国家と「功臣」の死』(宮間純一著 勉誠出版 2015年11月20日初版 )を読む

『国葬の成立 明治国家と「功臣」の死』(宮間純一著 勉誠出版 2015年11月20日初版 )を読む

東京東部地域合同労働組合東部ユニオン委員長 小泉義秀

国葬に関しての反対の論者の新聞やテレビによる報道で必ず出てくる第一人者が宮間純一教授である。国葬についての研究書も稀有であり、本書はその分野での代表的な著作だ。プレジデントの電子版に宮間純一さんの国葬に反対する記事が掲載され、東京新聞、信濃毎日、朝日新聞にも宮間教授が連続して登場し、テレビやラジオ番組でも紹介されることで、本書が直ぐに品切れとなった。古本には倍の値段がつき、入手が困難に。8月末までには重版が完成し、書店にもならぶことが予想される。私はいろいろと検索してみて直ぐに購入できるサイトを見つけて普通の価格で購入することができた。

「発足当初から国家要人の死に積極的に関与していった明治新政府。権力は『功臣』」の死にどのような意味を付与し、いかに装飾・創造していったのか――個人の死が『公』の儀式へと変わっていく様相を体系的に検証し、近代国家形成の装置として導入された『国葬』の歴史的展開を明らかにする。」(序文より・帯に掲載)という視点で本書は書かれている。

私が本書から学ぼうと思った事は何故今岸田が安部を国葬にするということを早急に決めたのか? という問題意識である。戦後、国葬令が失効し、戦後の国葬は1967年に行われた吉田茂以外にはない。佐藤栄作も中曽根も国葬に準ずる規模で行われたが国葬では無かった。では何故安倍が国葬なのか? 吉田茂の国葬は10・8羽田の後の10月31日である。佐藤が東南アジア訪問に出発したのが10月8日。戦火の真っただ中にある南ベトナムへの公式訪問が含まれていた。最大の兵站拠点として深々とベトナム侵略戦争に加担していた日本が名実ともに「ベトナム参戦国」として登場することを世界に宣言しようとしたのが佐藤首相の南ベトナム訪問である。吉田茂はこの最中に死亡し、佐藤は帰国後直ちに吉田茂を国葬にすることを決めた。10・8に機動隊に虐殺された京大生山崎博昭さんの10月17日の追悼中央葬には1万人が結集し、10・21ベトナム反戦統一行動には東京で6万人、全国で150万人が決起した。吉田茂の国葬はこれらの闘いに怯えた支配階級の大反動としてベトナム侵略戦争のために強行され、安倍の国葬は中国侵略戦争のために強行されようとしているのだ。5・23の日米首脳会談―共同声明でバイデンは「台湾有事には軍事介入する」と明言し、共同声明には「拡大抑止」という文言を入れた。拡大抑止とはアメリカの核ミサイルを日本に配備するということだ。岸田は中国侵略戦争に米帝と共に参戦していく国家意思を安倍の国葬を通して明らかにしようとしているのだ。核共有=日帝の核武装をいち早く宣言した安倍を『国家二偉功アル者』とするためだ。

 本書によれば、国葬は暗殺された大久保利通の准国葬で原型が定まり、岩倉具視の葬儀が最初の国葬として行われ、三條実美の国葬で「国葬の形式」が完成する。ここで宮間教授が三條の国葬をもって国葬の形式の完成というのか? 岩倉の国葬は政府決定で行われたが、天皇の裁可は受けていない。「岩倉具視や島津久光の葬儀と三條実美の葬儀が大きく異なるのは、国葬の発令が勅令=天皇の意に基づく命令という形式をもって行われている点である」(186頁)。天皇が裁可し、勅令をもって執行するという国葬の形式が完成したのが三條の国葬からだ。語句としての国葬という呼称が日本で定着するのが三條からなのだ。

 国葬とは天皇の勅令で行われてきた。天皇の思召をもって、天皇の命令で! これが国葬である。国葬=天皇制と戦争なのである。

天皇制国家日本は、戊辰戦争と西南戦争という二つの内戦を経て成立し、その後、ほぼ5年ごとに戦争や対外出兵などの軍事行動を行ってきた。

1894~5 日清戦争

1900   義和団戦争

1904~5 日露戦争

1910   日韓併合

1914~18 第一次世界大戦

1918~22 シベリア出兵

1927~28 山東出兵

1931   満州事変

1937   日中戦争(支那事変)

1941   アジア太平洋戦争(大東亜戦争)

1945   アジア太平洋戦争敗戦

天皇制は戦争の「勝利」によって形成・維持されてきた。国葬はその戦争と一体で天皇制を補完・維持するための装置としての役割を担ってきたのだ。

「国葬が成立し、完成していく過程とはすなわち、天皇の名のもとに政府が『功臣』の死を装飾し、演出していく軌跡である。国葬が、天皇から『賜る』『恵賜』という形式を採用している以上、この点も欠くことのできない論点となる」(10頁)という国葬の本質を体系的、実証的に著したのが本書である。

「政府の手によって、天皇の名の下に一人の『功臣』の死が『私』から『公』へと変遷する中で、その死と生前の『功績』は国家全体で共有されようとし、その結果成立した国葬は『国民』としての一過性の一体感を生むための一大イベントとなった。この性質は、戦中期に行われた山本五十六の葬儀、さらには戦後の吉田茂まで継承されており、今なお日本社会に残存する公葬制度に引き継がれているのである」(同267頁)

 国葬の成立過程を執拗に追及し、国葬の本質を暴きだしているのが本書である。

 更に、1919年に朝鮮で執行された高宗の国葬について言及していることは重要である。

「これらのほかに、国葬を主題に掲げたものではないが、新城道彦『天皇の韓国併合』やNHK取材班編著『朝鮮王朝「儀軌」百年の流転』による、1919年(大正8年)に朝鮮で執行された徳寿宮李太王熈(高宗)の国葬についての『高宗の葬儀を「国葬」とすることで、朝鮮民衆に李王家を丁重に扱っていることをアピールしようという狙いがあった』との言及は、示唆に富む。これは、朝鮮民衆の懐柔を図る日本側の目論見が国葬に込められていることを明確に指摘したものである。国葬は、単なる追悼行事ではなく、その背景には政治的意図がみえ隠れすることをこの一文は端的に表している」(同8頁)

 高宗は日本の侵略に抵抗を試みた前皇帝であった。その高宗の死を契機に植民地支配からの独立を目指す「3・1独立運動」が起こり、ソウルで始まった運動は朝鮮全土に拡大し、数百万人が参加したといわれる。この運動に対しても日本政府は徹底的な弾圧を加え、1年間で死者7千人、負傷者4万人、逮捕者は5万人にも及ぶ。国葬はこういう弾圧と一体の攻撃として朝鮮民衆に対しても襲い掛かったのである。

 国葬と国民葬はどう違うのか? 1922年の大隈重信は国葬ではなく、国民葬だった。国民葬とは日本史上では大隈と佐藤栄作の二人だけである。2020年中曽根康弘の葬儀も内閣・自由民主党の合同葬儀であり、国民葬ではない。大隈が何故国葬の対象にならなかったのか? この差は大きいのであるが、その点に踏み込んだ言及はない。講演会の時に質問してみたい事項だ。

広沢正臣や大久保利通らは暗殺されたことをもって天皇から多額の金員が下賜された。更に御親兵30名、山口藩から出された240名の兵が葬列の前後を固めた。こういった「数々の恩賜は、広沢の生涯の終え方はまったく不当なものであり、彼は生前にしかるべき『功績』を残した、ということを公に表明する意味をもったとみなすことができよう。それは、暗殺行為を天皇の『思召』によってまったく否定したことを意味する」(73頁)

「大久保の葬儀は、葬儀という空間において、天皇が哀しんでいる様子を視覚化し、島田一郎ら不平士族の所業を天皇の名のもとに完全否定する意味を持っていた。換言すれば、以後島田らに倣う者は、天皇に逆する『賊』であることを葬儀によって具現化したのである。」(102頁)

 国葬のみならず、政府・天皇は特別な『功臣』に対して神道碑の建設、下賜を行っていく。これが「第7章 神道碑の下賜」で展開される。「この神道碑がほかの顕彰碑の類と一線を画すのは、何よりも碑文が天皇の命によって編まれたものだということである」(230頁)

「故人のためだけに建設されるのではなく、天皇・国家がかつての『功臣』を手厚く処遇していることを示し、神道碑を通じて天皇とそれを直接的・間接的に目撃した人びとが『功臣』の記憶を共有化するための手段でもあった。」(231頁)

 神道碑は金属製で、当時の大学教授らや、書家が文選を含めて数年かかりで完成させる一大イベントでもあった。

「第8章 公葬の拡大」は「第7章」までの展開と内容を異にすると私は理解した。宮間教授が書こうとしたことを私が深く理解していないのかも知れないが、旧佐倉藩主堀田正倫の葬儀は天皇の「思召」とは異なり、こういう人ならば市を挙げての葬儀もあり得ると思う内容となっている。「慶応四年(1868)に『朝敵』となった前将軍徳川慶喜の赦免嘆願のため上洛して謹慎処分を受けた」(239頁)という気骨の持ち主でもあり、人格者であることをうかがわせる。

 天皇の恩賜、思召である国葬との対比で堀田正倫の公葬を捉えることができるのではないか。

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