”もう一つの沖縄戦”宮古島に出兵した山形県の98歳の証言

”もう一つの沖縄戦”宮古島に出兵した山形県の98歳の証言

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YBC山形放送

”もう一つの沖縄戦”宮古島に出兵した山形県の98歳の証言

 太平洋戦争の末期に沖縄県の離島・宮古島に出兵した男性が山形県西川町にいる。宮古島では食糧難や感染症で多くの人が命を落とした。

 この”もう一つの沖縄戦”の悲惨さを後世に伝えたいという98歳の証言を伝える。 西川町吉川の太田励さん(98)。

 終戦の1年前の1944年、21歳の太田さんは西川町の鉱山で働いていた。そこに、召集令状「赤紙」が届いた。

 太田さんは「家を出れば家には帰れない。必ず死ぬと思って出た。絶体絶命、従うほかにない」と振り返る。

 配属されたのは、沖縄本島から南西に約300キロ離れた宮古島。当時、約6万人が住んでいた宮古島には、アメリカ軍との戦闘に備え3か所の飛行場が建設され、1944年12月までに3万人もの軍人が派遣された。

 しかし、アメリカ軍は宮古島には上陸せず、沖縄本島に侵攻、日本軍をはじめ一般住民ら約20万人が犠牲になった。沖縄本島にはいまも、アメリカ軍の攻撃の激しさを物語る痕跡が各地に残されている。

 太田さんは「(沖縄本島が)玉砕しても損害は軽微なりなどと嘘を言われていた。兵隊には本当のことは伝えられなかった。沖縄本島が陥落してからは毎日、宮古島や周辺の小島に集中して攻撃された。

 艦砲射撃(船からの銃撃)はどの方面から射撃されるかわからない。それが一番恐ろしかった」と語る。

 無線通信兵として、ほかの部隊に「モールス信号」で暗号を送る役割を担っていた太田さん。しかし、暗号の意味は上官のみがわかるようになっていて、一線の兵士は内容を知らされることもないまま連絡を取っていたという。 「(結局)アメリカにはそれ以上の通信機があるから、日本で発したものは全てアメリカ軍に傍受されてしまい、無線通信兵は何もできなかった」 戦況は悪化の一途をたどり、島への物資の補給路が断たれた。

 アメリカ軍の空襲、さらに食糧難による飢えが太田さんたちを苦しめた。 太田さんは「過酷なんてものじゃない。きょう死ぬか今死ぬか明日死ぬかばかり考えていた。食べ物が足りないから力がないし、逃げる力もない。ただ生きているだけ。ご飯は粒を数えるくらい少なかった。俺のは何粒だと数えている兵隊もいた」と当時の過酷な状況を語る。

 追い打ちをかけるように感染症が猛威を振るった。「8割くらいが感染症にかかった。マラリアや疥癬など。栄養失調になっているから、マラリアの蚊に刺されると死ぬ寸前までの熱が出る」。 宮古島では、蚊を介して人に感染し、高熱や下痢などを引き起こす「マラリア」が流行した。島では、3000人以上が亡くなったとみられ、そのほとんどが栄養失調やマラリアによる戦病死だった。

 太田さんは何とか生き延びて終戦を迎え、西川町に戻ることが出来た。「アメリカ軍の貨物船で輸送されて帰ってきた。そして富士山の近くに来て、富士山が見えたときにはバンザイをして喜んだ。日本に帰れたんだと」。 太田さんは自ら経験した戦争の悲惨さを後世に伝えようと、その思いを書き綴り、新聞へ投稿を続けている。

 戦後76年のことし、98歳を迎えたいまも「戦争をしてはいけない」という思いは変わることはない。 太田さんは「戦争は負けても勝っても犠牲者が出る。そして誰にも儲けがない。二度とあってはならない」と訴える。

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